田中一村の鶏の絵について
まだブログ始めて間もない頃だったので、もの凄い悪文だったので、書き直して再録します。
何でも鑑定団の中島先生が絶賛していた一村の絵画展が
我が県で、4、5年前に巡回で来ていたので、見に行きました。
一村の絵は、奄美の黒糖焼酎「里の曙」のラベルに使われており、アダンやソテツの木や南方の鳥などをモチーフに描かれた絵は、文句なく素晴らしく、観る者を圧倒していました。
ここには、他の追随を許さない独自の世界が展開されていました。
美術館を訪れた人々は、あばさんが圧倒的に多かったのにかかわらず
静かに絵を見ていました。普段、美術になじみがない者に対しても、強く訴えられるものが、一村には確かにあるのでしょうね。
一村の画家人生の、それぞれの時期の絵がみられました。
一村が生前不遇だったので、絵が余り売れず、大多数が奄美に残っていたのが、幸運だったのでしょう。
画家の人生を、現在、奄美の美術館で辿れて、見られるようになっているようですしね。
このことは、本当に一村の絵が好きな者には、幸運だと思いますね。
僕は、この展覧会の中で、奄美に行く前の時代に描かれた<b>鶏の絵</b>に強い印象を受けた。
それは、凄く男前な表情を持ち、孤独な面影があったが、全然鶏らしくない容貌は、見る人に強く訴えるものがあるが、何かが足りない絵だと思った。
これは、きっと不遇な一村を投影したものに違いないと思った
そこで、ふと考えたのは、こんなの鶏ではないのだろうということだった。
鶏が、鶏らしくある必要はないけど、鶏に見えないものは、鶏と呼べないのではないかと、
サルトルの有名な言葉「実存は本質に先立つ」に沿って考えれば、
鶏が鶏らしく見えないのは、やはりおかしい?などなど、考えて、心の中でしっくりいかないのに気づいた。
観る者に違和感を与える絵というものは、やはり未完成なのではないかな、この絵に大きな謎があるということは、考慮すべきだが、一村の中の欠けたものを示しているに違いないと思った。
そんなことを、lかれこれ考えた後、最晩年の奄美での絵を見てみると、このような消化できずにいたものも、奄美での生活の中で序序に解消していき、あの素晴らしい絵をたくさん生み出したのだろうと言うことが分かる気がした。
奄美の絵の中の鳥たちは、普通にどこででもいる鳥たちで、特別な人格は投影されていず、あくまで鳥らしい
これは、先ほどのサルトルの言葉では、現実存在(実存)は、本質に先立つ
この言葉通りになっている。ように思った。
そこには、違和感のない、安らぎの世界があったと感じた。
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