田中一村の鶏の絵について

以前書いた記事と同じ記事ですが、以前書いたのが、_004_7

まだブログ始めて間もない頃だったので、もの凄い悪文だったので、書き直して再録します。

何でも鑑定団の中島先生が絶賛していた一村の絵画展が
我が県で、4、5年前に巡回で来ていたので、見に行きました。

一村の絵は、奄美の黒糖焼酎「里の曙」のラベルに使われており、アダンやソテツの木や南方の鳥などをモチーフに描かれた絵は、文句なく素晴らしく、観る者を圧倒していました。

ここには、他の追随を許さない独自の世界が展開されていました。

美術館を訪れた人々は、あばさんが圧倒的に多かったのにかかわらず
静かに絵を見ていました。普段、美術になじみがない者に対しても、強く訴えられるものが、一村には確かにあるのでしょうね。

一村の画家人生の、それぞれの時期の絵がみられました。

一村が生前不遇だったので、絵が余り売れず、大多数が奄美に残っていたのが、幸運だったのでしょう。
画家の人生を、現在、奄美の美術館で辿れて、見られるようになっているようですしね。
このことは、本当に一村の絵が好きな者には、幸運だと思いますね。

僕は、この展覧会の中で、奄美に行く前の時代に描かれた<b>鶏の絵</b>に強い印象を受けた。

それは、凄く男前な表情を持ち、孤独な面影があったが、全然鶏らしくない容貌は、見る人に強く訴えるものがあるが、何かが足りない絵だと思った。
これは、きっと不遇な一村を投影したものに違いないと思った

そこで、ふと考えたのは、こんなの鶏ではないのだろうということだった。
鶏が、鶏らしくある必要はないけど、鶏に見えないものは、鶏と呼べないのではないかと、
サルトルの有名な言葉「実存は本質に先立つ」に沿って考えれば、
鶏が鶏らしく見えないのは、やはりおかしい?などなど、考えて、心の中でしっくりいかないのに気づいた。

観る者に違和感を与える絵というものは、やはり未完成なのではないかな、この絵に大きな謎があるということは、考慮すべきだが、一村の中の欠けたものを示しているに違いないと思った。

そんなことを、lかれこれ考えた後、最晩年の奄美での絵を見てみると、このような消化できずにいたものも、奄美での生活の中で序序に解消していき、あの素晴らしい絵をたくさん生み出したのだろうと言うことが分かる気がした。

奄美の絵の中の鳥たちは、普通にどこででもいる鳥たちで、特別な人格は投影されていず、あくまで鳥らしい
これは、先ほどのサルトルの言葉では、現実存在(実存)は、本質に先立つ
この言葉通りになっている。ように思った。

そこには、違和感のない、安らぎの世界があったと感じた。                                

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田中一村の絵について

田中一村の鶏の絵について書いたけど、田中一村は世間に余り知られていないのだね。

ネットがあれば簡単の一村の絵を取り込めると思ったのだけど、そうでもないみたいだね。自分の画集からデジカメで写して公開します。

一村の画集はそんなに高くない、というよりお得。奄美大島に出来た美術感では一村の主要な絵を全て見ることができるし、絵以外に奄美は良いところみたいだね。

奄美での一村の絵は素晴らしいねえ。 _020_1 _027 _030_1

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マリア・テレジアの肖像画その2

Mth2 ネットでマリア・テレジアの肖像画が見つからないと言っていたMth1けど、

世界のネットで見つけたらいいんだ。

そしたら見つかった。

でも、印刷が悪いのかな、よく写っていないような気もするのだけど、日本の印刷技術はやはり高いのかな。

歴史上、世界の美女をネットで捜して取り込んで公開しようと、勝手に考えていたのですが、この企画は上手くいきそうもありませんなあ。

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田中一村の鶏の絵について その2

_004_5  今まで書いた記事の中で、一番思い入れがあるのが田中一村の鶏の絵なんです。

ブログを初めて直後ぐらいだったので、これが言いたいんだ。という思いがあったからだね。マリア・テレジアの記事のとき無理矢理デジカメで写真撮ったらできたので、一村もデジカメで写してみました。

結論としては余り上手く写らないねえ。

でも、奄美に旅立つ前、自分の道をなかなか見つけることができず、焦燥にかられる孤独な姿。というものを勝手に自分は感じているのだけど。どうだろう。

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マリア・テレジアの肖像画

マリア・テレジアの若い時の肖像画をネットで取り込もうと色々探したのですが、_283_1

年取って二重顎になったものしか見つからなかったので、仕方ないので、江村洋先生の表紙をデジカメで写して貼りました。

なんでこんな歴史的にも重要な絵がみつからないのだろうか、

マリア・テレジア帝、言わずと知れたフランス革命の悲劇の王妃マリー・アントワネットのお母さんだね。18世紀の啓蒙君主、16人も子供をもうけた女傑。名門ハプスブルク家をしょって立ち、宿敵プロイセンのフリードリッヒ二世との対決は一つの歴史の大きなハイライトだね。

まあ、歴史的事実については、江村先生の本を読めばよく分かるし、面白い。この人の毅然としながらも、どことない女性的な優しさも分かると思うね。それに較べ、フリードリッヒ二世の性格の悪さ、汚さはなんやねん。まあ歴史は強いものが正しいみたいなところもあるから仕方がないところはあるけど。

で、この肖像画を自分はよく見るのだけど、ほとんど女性の美として考えるなら、欠点がないような気がするのだけど、もちろん実物を肖像画家が理想的に描いたものだろうけど。

この人のりりしさ、どこか優しい面影、そして幸せな人生を生きているという自信、

美が力なら、この絵はオーストリアの人々に多大の勇気を昔から与え続けてきたんだと思うね。

姿、形が端麗だけが、美女の要件ではなく、教養、内面の美しさもなければ美というものにならないのかなあ。自分はいろいろ勝手に考えているんだけど。

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吉田屋

新日曜美術館の録画していた分を見た。九谷焼きの吉田屋のことだった。浅学なので、この伝右衛門と言う人知らなかった。でも、この古九谷復興のプロジェクトの話は、大変面白かったし、この吉田屋の皿は、文句なく素晴らしい。

伝右衛門は72歳のときこの窯を作ったというのは、高齢時代の今の時代にぴったりの話だし、加賀藩から謹慎されても、めげずついに復興成し遂げただけでなく、過去のものよりもいいものを作ろうとする心意気、なんて凄い人なんだろう。一方、職人を大切にし、午後4時過ぎには、酒を飲んでもよいなど、ものの道理がよく分かっていた人だったのね、リーダーとして必要な資質を全て備えた人だね、なんで、こんな凄い人を今まで知らなかったのだろう、恥ずかしい。

皿を普通に見てみると、まず思ったのは、勇気があること、黄色、青色、紫色、赤色の伝統的な九谷の色彩を使って、大胆にさまざまな絵を描く、勇気がなければ、感性が豊かでなければ、昔の人が書いたのを模倣だけし、技術だけで誤魔化すのだけど、ここの皿は、そんな伝統的モチーフを越えて自由に発想できている。今の人が、コンピューターグラフィックなどを使ってても、決して辿りつけない境地にあるねえ。

なんで、えびをそんなに大きく描くの、この老人は何をしてるの、この鯉は、こっちを覗いているが、どうして、背景のこの緑色は何を意味するの、などなどいろいろなことを想起させるねえ、本当に面白いわ、

この吉田屋の展覧会はできたら行きたいなあ。

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ガストで掛かっていた絵

今日、昼久しぶりにガストに行って来ました。すると、掛かっていた絵が代わっていました。前の絵は、水彩のいろいろな花の絵でしたが、今度は、馬蹄の絵とひまわりになっていました。

いままでの絵は、花が白い画用紙に中央な描かれていて、絵が掛かっている壁との間に、絵の余白の白色が寂しい感じを与えていたのだが、今度の絵の余白が壁の色と同じ色で、安定した感じを与えるようになっていた。

ファミレスの中には、同じ絵をずっと掛けていて、それも、花の絵、風景画、などと、ばらばらに掛けていても、全く気にならない大手チェーン店もあるのに、こんな些細な点にも、細やかな気遣いをしていたのには、感心した。安い店だけとは違うのだなとも思った。

自分は、職場に絵が掛かっているとか、花が差しているようなところでしか、できれば働きたくないと思っているが、なかなかそんな余裕のあるところは、ないものだと、最近しみじみ思っている。

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