入店垂手

詩は、_017

味をおもう身をばこころず苦しむる あるに任せてあるぞあるべき

ここでは、布袋さんが袋をぶら下げて店に入ってきたところで、伴人を連れて手を振っている図

第八図までが、世の中の人の役にたつための自分をつくる用意のための修行、九,十にいたって初めて利他、他人のためにいきる命ができるといわけ。

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返本還源

詩に_010_5

染めいねども山は緑になりにけり おのがいろいろ花もなきなり

修養もしっかりして、本然に返ること。これは難しいけど、悟り悟って悟りくして、もとの本然の世界に返った。本然の世界は、何の塵も汚れもない、清浄無垢の姿が本来の世界。

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人牛倶忘

ここは、もう何もない。人も牛も共に忘れちゃった。何もない。_006

詩は、

もとよりもこころの法はなきものを、ゆめうつつとは何をいいけん

まんまるいもの、仏様のほうでは、これを「円相」といい、円相とは何を暗示あいているかとは、これは、畢竟、本然の自性、仏性、仏心、天地の大道。特に禅のほうでは、平等、絶対を象徴したもの。天地の十宝はみな空。

三祖大師の「信心銘」という本に

円かなること大虚に同じ、欠くることなく余ることなし

これは円相の説明。つまり、この円相、丸は修養がここまで進めば、もはやいっさいの執着を超越して、迷いもなければ悟りもないことを象徴

要は、迷いがなければ、悟りもない、悪があるから善がある。

とうとうもう先がないと思うのだけど、まだ先があるのだね。

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忘牛存人

_004_6 今まで牧童と一緒にいた牛がいなくて子供一人になるのが、この図

第六図では、求める人と求められた牛とが全く一体となって、いわゆる無心無我の境に没入した。ところがさらに、修行が進んで、気がつくと、今まで求めていた牛、いわゆる本然の自性、自我の本質、そのなかに存在する本心というものが、ほかのところにあるのではなく、自分自身であったということを暗示したのがこの第七図

詩では、

忘れじと覚えしうちは忘れけり、忘れて後が忘れざりけり

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騎牛帰家

_002_15 ここでは、よく普通の絵で見ることが多いのだが、この図は何を暗示しているかというと、今までなかなか手なずけることができないなかった荒牛の、次第に飼い主の思うように馴れてきて、もはや背中の上に乗って、のんびりと笛を吹いて、牛とともに楽しみながら家に帰れるようになった

詩は、

かえりみる遠山道の雪きえて 心の牛にのりてこすゆけ

人生の本当の幸福というのは、病、煩悶と貧乏、この三つがないことで、そういう不幸は、自分の身の上にあるかもしれないが、もう私にはないんだと。そのすべてが、なんと自分の命のなかから用のないものになっちゃってr、命の力が十分に発揮できるようになったという状態がこの騎牛帰家

十牛図の恐るべきところは、ここでもう十分悟っているのではないかと思うのだけど、あと四つ絵がまだあるところだね。

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牧牛

_028_1 これは自分が発見して、とっつかまえた牛を飼い慣らして、育てあげようとする図

詩は、

日がずへて野飼いの牛も手なるれば、身にそう影となるぞうれしき

ここでは、修業が楽しくなっていってることだろうね。

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得牛

_010_3 「得牛」

はなさじと思えばいとどこころ牛 これぞまことのきづななりけり

これは、ようやく苦心惨憺の結果、牛をつかまえたことで、しかしつかまえたのはいいけれど、なかなかこれが思うように言うことをきかない。ややともすればもとの山の奥に逃げ帰ろうと暴れる。それを、また逃がしてなるものかと一生懸命に努力して、引っ張ってこようとしているところ

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見牛

ここはそのまま本文抜き出し_121

・さっきは跡を見たんだね。ところが、今度は牛を見たんだ。

 吠えけるをしるべにしつつあら牛の かげを見るほどに尋ねきにけり

牧童が探し求めて、苦心に苦心をかさねて、ようやく牛の半身を見つけたところ。「吠えける」というのは、鳴いたからだね。ほうら、おしりだけ出てる。

 詳しく言うと、経典や語録の跡をたどり、あるいは公案、提唱とか語法というものを聞いて、おぼろげながらも本然の自性を何か気がついたような気がすると同時に、この宇宙のなかにある自然の摂理をわかりかけてきて、やや安心の道えお見出したように感じたことを暗示した絵なのだ。

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見跡

_018 「見跡」

牛をたずね求めて、山、また山と探し回って歩いた牧童が、どうやらやっとのことで、とある谷川のほとりで牛の足跡を発見したところ

ここの詩は、

こころざしふかきみ山のかいありて しおりのあとを見るぞうれしき

ここは単に、いい本が見つかった、いい教えが書いてあるというものを見つけたということらしい。

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尋牛

_013_1 テキストは中村天風述「盛大な人生」(日本経営合理化協会出版局)を使います。この本は素晴らしい本なので、興味のある人は、ぜひ買って読んでください。

第一番「尋牛」

イメージは、1人の牧童が、牛を尋ねて深い山の中に分け入っている状態。そして、あっちこっち眺め見渡しながら、牛らしいものはいないかな、いないかな、と目を見張って、そして探し出せないで、困って弱っている状態。

ここでの詩は

たずねゆくみやまの牛は見えずして、ただ空蝉のこえのみぞする。

仏教では、修行を志す者の三つの心を持つ 、道元禅師の言葉

一、「喜心」 容易に得られないものを得るときが本当の喜び

二、「老心」 おもいやりの心

三、「大心」 これは菩提心と同じで、悟りの境地にある心

この三つが修行僧の必要な心

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