入店垂手
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詩は、
もとよりもこころの法はなきものを、ゆめうつつとは何をいいけん
まんまるいもの、仏様のほうでは、これを「円相」といい、円相とは何を暗示あいているかとは、これは、畢竟、本然の自性、仏性、仏心、天地の大道。特に禅のほうでは、平等、絶対を象徴したもの。天地の十宝はみな空。
三祖大師の「信心銘」という本に
円かなること大虚に同じ、欠くることなく余ることなし
これは円相の説明。つまり、この円相、丸は修養がここまで進めば、もはやいっさいの執着を超越して、迷いもなければ悟りもないことを象徴
要は、迷いがなければ、悟りもない、悪があるから善がある。
とうとうもう先がないと思うのだけど、まだ先があるのだね。
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ここでは、よく普通の絵で見ることが多いのだが、この図は何を暗示しているかというと、今までなかなか手なずけることができないなかった荒牛の、次第に飼い主の思うように馴れてきて、もはや背中の上に乗って、のんびりと笛を吹いて、牛とともに楽しみながら家に帰れるようになった
詩は、
かえりみる遠山道の雪きえて 心の牛にのりてこすゆけ
人生の本当の幸福というのは、病、煩悶と貧乏、この三つがないことで、そういう不幸は、自分の身の上にあるかもしれないが、もう私にはないんだと。そのすべてが、なんと自分の命のなかから用のないものになっちゃってr、命の力が十分に発揮できるようになったという状態がこの騎牛帰家
十牛図の恐るべきところは、ここでもう十分悟っているのではないかと思うのだけど、あと四つ絵がまだあるところだね。
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テキストは中村天風述「盛大な人生」(日本経営合理化協会出版局)を使います。この本は素晴らしい本なので、興味のある人は、ぜひ買って読んでください。
第一番「尋牛」
イメージは、1人の牧童が、牛を尋ねて深い山の中に分け入っている状態。そして、あっちこっち眺め見渡しながら、牛らしいものはいないかな、いないかな、と目を見張って、そして探し出せないで、困って弱っている状態。
ここでの詩は
たずねゆくみやまの牛は見えずして、ただ空蝉のこえのみぞする。
仏教では、修行を志す者の三つの心を持つ 、道元禅師の言葉
一、「喜心」 容易に得られないものを得るときが本当の喜び
二、「老心」 おもいやりの心
三、「大心」 これは菩提心と同じで、悟りの境地にある心
この三つが修行僧の必要な心
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